デザインテクノロジーの最前線 - 桐山孝司

m.c.t.ホーム > エクスペリエンスマガジン > デザインテクノロジーの最前線 - 桐山孝司 > 経験の記憶へのアクセス

2010.06.17経験の記憶へのアクセス

最近、ダニエル・カーネマン(プリンストン大学)の論文や講演記録を見る機会があった。カーネマン教授はもともと心理学者だが、2002年にノーベル経済学賞を受賞している。彼は日々の判断や選択の場面で人間が見せる直感的な思考に興味を持ち、その特徴を見いだす様々な心理学の実験を行ってきた。その結果、完全に合理的な人間という従来の経済学の仮定とは違う、直感的な考え方をする人間のモデルで経済活動における判断や選択を説明したのである。

カーネマン教授らが90年代に行った実験の一つに、冷たい水に手を浸けるものがある。被験者は7分ずつ間をおいて、14℃という非常に冷たい水に3回手を浸けるようにいわれる。1回は片手を14℃の水に60秒入れる。もう1回は反対側の手を14℃の水に60秒入れたあと、さらに30秒延長するのだが、その間に水温をゆっくり15℃にあげる。そしてこれから3回目というときに、被験者は短い方と長い方のどちらかをもう一度やるとすれば、どちらがいいかと聞かれる。すると長い方がよいと答える人の方が多いのである。長い方は最後の30秒で温度が14℃から15℃にわずかに上がるが、それでも非常に冷たいことにはかわりがない。つまり被験者はより長い時間、冷たい水に手を浸ける方を選んでいるわけである。

これは実際に体験したことでも、思い出すときの記憶が違ったものになっているためである。上記の実験では実際に手を浸けている間、どれだけ不快かをリアルタイムに報告してもらっている。そのデータを見ると、14℃の水に手を浸けている間にどんどん不快さは上がっていき、平均して60秒で15段階中の0から8付近にまで増える。その後の30秒で温度を15℃に上げると、今度は約3分の2の人が不快さが4程度まで和らいだと報告している。それでも0に戻ることはないので、結局リアルタイムで記録したデータだけをみると、長く手をつけていたときの方が積算した不快さは多いのである。ただその経験を思い出すとき、最後に少し楽になった印象だけが強く残っていて、不快だった時間の長さは覚えていないということになる。

これは一般にピーク・エンドの法則といわれるもので、経験を思い出すときには最良や最悪のときと、最後のことしか記憶に残らない。それほど人間の記憶は偏っているので、よい印象を持って帰ってもらうには特に最後を効果的にしようということになる。実際にピーク・エンドの法則は他の多くの実験でも確かめられている。ただカーネマン教授が優れているのは、この法則を実験で確かめただけではなく、さらに一段掘り下げて、人間の認識の性質に結びつけて理論化していることである。

我々は運転、会話、食事、読書などのいろいろな経験について、種類ごとの典型的な様子を思い浮かべることができる。もともとすべての経験の詳細を覚えているわけではないので、こうした典型的な状況を思い出すことで、記憶の中でそこに含まれる性質にアクセスできる。例えば新しい場所で運転するときを思い浮かべると、電話番号を入力しながらナビで行き先を検索している様子が容易に想像できる。そこから電話番号を書いたメモを持って行った方がいいという推論もできるのである。

典型的な記憶をプロトタイプと呼ぶが、行き先があるというのは運転のプロトタイプの性質の一つである。ところが運転する時間の長さはまちまちなので、プロトタイプを思い出しても典型的な運転時間というものはなく、強いて考えようとするならば、いろいろな場所へ行くときの個々の時間を合計して平均するということになってしまう。個々の要素の集まりとして全体が定義されるような性質を外延というが、運転のような経験の集合にとって時間は外延的な性質なので、プロトタイプを思い浮かべても自然にアクセスできない。このように時間という外延的な性質は経験のプロトタイプにないので、経験を思い出すときに時間が消えてしまうというのが、直感的な思考についてのカーネマン教授の説明である。

カーネマンと彼の共同研究者だったトヴァスキーは1970年代からこのような実験や理論化を始め、その後、行動経済学という分野ができるに至った。直感的な思考の洞察に基づいて人間の判断や選択を分析するという方法は、経験を扱うデザインにおいても非常に参考になると思われる。現在では行動経済学の延長として人間の満足を国際比較する研究なども行われており、今後の発展にも注目したい分野である。


cold.JPG